数学の哲学者 ピタゴラス 「万物は数なり」

今回紹介する哲学者は ピタゴラスです。

彼は「サモスの賢人」と呼ばれていました。

 

紀元前582年から496年頃の数学者、哲学者です。

ピタゴラスイオニア地方のサモス島で、宝石細工師の息子として生まれた 。近くの町には、著名な数学者のタレスが住んでいた。
伝記によると、彼は若くして知識を求めて島を旅だち、世界の各地を旅した。エジプトでは幾何学と宗教の密儀を学び、フェニキアで算術と比率、カルディア人から天文学を学んだといわれています。

ポルピュリオスなどの伝記によれば、ゾロアスター教の司祭のもとで学んだといわれる。さらにはイギリスやインドにまで旅したという伝説もある。
彼は20年にわたった放浪の末に、当時存在した数学知識のすべてを身につけて、故郷のサモス島に戻ってきた。

戻ってきた彼だったがサモスは僭主ポリュクラテスの抑圧支配下にあり、学問研究に向かなかったため政治革命に挫折し南イタリアに移り宗教、政治、哲学を併せ持つ宗教的結社を創設しました。

そこで弁舌をし、彼の思想に共鳴する多くの弟子とともにピタゴラス教団、またはピタゴラス学派と呼ばれる集団を立ち上げた

この教団は魂の不死と輪廻を信じ、禁欲的な生活をしていました。

1は理性2は女性3は男性というように数に思弁的な意味を持たせる哲学を展開していました。

ここから数こそ万物の根源であると主張したといわれる由縁になります。

またピタゴラスが組織した教団は秘密主義で、内部情報を外部に漏らすことを厳しく禁じていました。

そのため違反者は船から海に突き落として死刑にました。そのため教団内部の研究記録や、ピタゴラス本人の著作物は後世に一点も伝わっていないという点はタレスと同じですね。

そのためピタゴラス個人の言行や人物像は、教団壊滅後に各地に離散した弟子の著作や、後世の伝記、数学に関する本の注釈といった間接的な情報でできあがっている。

彼の肖像や彫像類も、すべて後世の伝聞や想像で作られたイメージであり、実際にどういう風貌をした人物だったかは分かりません。

この教団はやがて地域の有力者の保護を得て大きな力を持つようになり、数百人の信者を集めました。

ピタゴラスも弟子だったテアノという女性と結婚してました。しかしこの後援者が政争に巻き込まれて失脚する。かつて教団への加入を希望した者がテストで落とされて門前払いになった人物が、その遺恨から市民を扇動した。教団は暴徒と化した市民に焼き打ちされて壊滅し、ピタゴラスも殺されたという。

 

感想

若い時から知識への欲が強かったと思う彼だが教団を作り違反者は殺すなど残虐な面も垣間見えている。

しかしこの教団は悪いことをしようとする団体ではなくピタゴラスの定理を発見したのもこの団体があってこそだということを考えると何かの一面を見るだけで判断しがちな日ごろを考え直さなければならないと感じますね。

またピタゴラスの逸話は多く数の整合性を重視するあまり無理数を発見した弟子の考えを認める代わりに死刑にしてしまったという話があります。

また音楽にもたけており鍛冶屋のハンマーから振動数により音程が変わることを発見ました。

最後に面白い逸話として有名なのは

彼は豆が嫌いだったらしく教団の全員に豆を食べない規則を作った。

理由は性器に似ているや地獄の門に似ている健康のため、政治的理由など諸説ありますがピタゴラスの最後が追っ手に追われたときに豆畑を通りたくないから立ち往生(迂回)したことによりつかまり殺されたとされているところですね

どれだけ嫌いなの!という感じですが彼なりの思想からくるものだったとしたら納得もできるのかもしれませんね。

長くなりましたが

数学の哲学者 ピタゴラス 「万物は数なり」

の紹介を終わります。